スチールストーリージャパンインフォメーション

 

   
information

2018-05-25
「近現代日本の鉄スクラップ業者列伝」発刊のお知らせ  
2017-08-26
「日本鉄スクラップ業者現代史」発刊のお知らせ  
2017-01-10
トランプ状況にもの申す 市民として  
2017-01-05
「ニッチな専門商社」ナベショーの百年(上)(下)を発刊しました  
2016-02-13
本データーはフリー・サイト(無料閲覧)です  
2015-11-04
冨高 幸雄のアドレス  
2015-04-28
公開・投書箱(自由参加)です  
2015-04-27
鉄スクラップ総事典を発刊いたしました  
2015-04-27
ジュンク堂書店・大阪本店、梅田店、神戸三宮店で書籍販売  
2015-02-03
HP開設と鉄スクラップ事典、公開のご挨拶  
2015-02-03
「日本鉄スクラップ史集成」販売のお知らせ  
2015-01-21
バナー広告掲載のお願い  

社史作成

英文翻訳

鉄スクラップ総事典

鉄スクラップ史集成

 

「近現代日本の鉄スクラップ業者列伝」発刊のお知らせ

「近現代日本の鉄スクラップ業者列伝」発刊のお知らせ

 

18年5月 スチールストーリーJAPAN(A5判 ソフトカバー・395ページ)

定価3,000円+消費税+送料400円=3,640円で発売を開始しました。

 

***

 

私は古代から現在までの鉄リサイクル業の流れを全て包み込もうとの壮大な思惑から「日本鉄スクラップ史集成」(13年)、「鉄スクラップ総事典」(15年)を刊行しました。さらに先行の二書で欠落した金属屑営業条例や鉄屑カルテル記述の不備を埋め、鉄リサイクル業の現状報告と将来展望を併記した「日本鉄スクラップ業者現代史」(17年)を出版しました。

***

その後、新たな資料や文献を整理した結果、後世に伝え残すべき人物像が浮かび上がってきました。いずれもある時代の分岐点に立ち、方向を決定し、一時代を画期した人物です。本書はそれらの人物群を取り上げ「近現代日本の鉄スクラップ業者列伝」と名付け、二部構成で編集しました。

その第一部が、鉄スクラップ業者史概観です。列伝の前に、彼らが生きた当時の時代背景を予め知っておく必要があると考えたからです。

 

第一部    鉄スクラップ業者史概観(江戸から平成まで)

 

 江戸近世から明治以降、現代までの日本の鉄スクラップ業者の歴史を、各種資料と関係者の証言に基づいて、時間軸に沿って記述しました。

明治から大正、戦前の昭和の銅鉄商・古金屋(大正前半まで、大阪では戦前まで「鉄屑屋」との言い方はなかったようだ)がどのような商売をしていたのか。

また戦前の「日本鉄屑統制株式会社」設立と運営のいきさつ、「金属類回収令」と鉄屑業者の関係、戦後の「鉄屑カルテル」と「日本鉄屑連盟」結成の経緯、さらに現在の「日本鉄リサイクル工業会」の設立にいたる歴史的な流れを、国立国会図書館蔵書(伊藤資料、鉄屑界など)や業界の保存資料に基づいて書き改めました。

最後に90年代以降の逆有償やリサイクル諸法と鉄スクラップビジネスの関係や鉄リサイクル業者の立ち位置と業の存続も歴史的な文脈で再整理しました。

 

第二部 鉄スクラップ業者列伝

第二部の列伝では、明治、大正、昭和、平成を貫く人物、一族を取り上げました。

 

1 業界の地平を切り開いた 岡田菊治郎と池谷一族 

岡田菊治郎は、明治、大正、昭和の三代にわたり、独創的な商法で傑出した。昭和初期、誰も見向きもしなかった下級材処理のプレス機を開発し、欧州大戦終了後に老朽廃棄船から再生鉄材(伸鉄)を回収して製鋼会社を立ち上げ(大阪・臨港製鉄、東京・東京製鉄)、戦前の紳士録である財界人物録に、業界から唯一人、掲載された。準戦時体制が強まった39年、40年には個人多額納税者として連続トップとなり、新聞各紙に報じられ、話題となった。大正・昭和の前半にかけ、鉄屑業界は勿論のこと、一般家庭の主婦にまで広く知られた人物である。▽戦後の岡田は、東京製鉄の経営からは手を引いた。それを引き受けたのが、若くして鉄屑業の傍らパイプ切断加工や鋼管製造会社を設立した池谷太郎だった。戦後の東鉄は池谷が大きく育て上げた。日本最大の独立系電炉会社は、鉄屑業の創生の歴史とも重なる出自を持った。

 

2 鉄屑統制とカルテルに対峙した 伊藤信司とその一族

伊藤家の鉄屑商売は、貧窮のなか深川から業を興した伊藤寅松に始まった。その子が、戦前、戦後を通じて業界を牽引した伊藤信司、伊藤製鉄を築いた伊藤三好である。

伊藤信司は、鉄屑業者の町、本所・深川を拠点に政治活動に乗りだし深川区会、東京府会議員に史上最年少で当選し、翼賛選挙では非推薦で落選した。国策である日本鉄屑統制会社の設立とその後の運営に若くして係わり、戦後は業者団体である鉄屑懇話会副会長、広報委員長に就任し、日本鉄屑連盟ではカルテル対策委員長として鉄屑カルテル反対運動を指揮し、日本鉄屑協議会、日本鉄屑工業会など業界のターニングポイントに際しては、団体運営に深く係わる知見者・仲介者としてその発言・動向が重んじられた。

業界変化の節目に立ち会い、政府、鉄鋼、業者に対し、大所高所から局面打開策を提言し、緻密な論理と構想力で鉄屑業界の活路を開いた大参謀であった。

 

3 戦前・戦後を率いた業界のリーダー 德島佐太郎と小澤肇

德島佐太郎は戦前・戦後を通じて鉄スクラップ業界を代表する特異な存在だった。

戦前から関東四大業者の一角を占め、德島が開発した「水圧プレス機」や釜石送りでも知られた。戦後は日鉄・富士系の直納大手である産業振興社長でありながら、主に中間業者が中核となって結成した関東鉄屑懇話会の会長、反カルテルの旗を掲げて全国の鉄屑業者を糾合した日本鉄屑連盟の創設会長をつとめた。また鉄屑連盟に代わるカルテル対応団体・日本鉄屑問屋協会を立ち上げた松島政太郎が病で倒れた後は、その後継会長として鉄屑業界を代表した。

戦前の高級経済官僚であった小澤肇は、德島と共に産業振興を立ち上げ、鉄屑カルテル廃止後(74年)は、ポスト・カルテル対策の一つとして創設された日本鉄屑工業会の初代会長として75年から93年まで17年間にわたって鉄屑業界の土台を固め、工業会の骨格を築きあげた。

 

4 鉄屑業の中軸百年の系譜 鈴木徳五郎、成島英美、鈴木孝雄

鈴木徳五郎は、建場業から鉄屑業に転じ昭和初期には岡田と並ぶ関東大手の一角を占め、鉄屑統制の監査役、戦中は関東金属回収会社の社長を務め門下から多数の鉄屑業者を輩出した。

成島英美は、東京帝大を卒業し、東京市社会局保護課に配属され貧民対策に従事。その後、徳五郎の娘婿となり、戦後は日本鉄屑連盟や日本鉄屑工業会の副会長を歴任した。

鈴木孝雄は徳五郎の直系の孫。関東月曜会、関東鉄源協議会長などを経て鉄屑工業会第三代会長として10年にわたって業界を牽引し2010年には経団連に招き入れられた。経営難などの同業企業の受皿として企業規模を膨らませ日本最大の総合リサイクル企業を作り上げた。

 

5 平和相互銀行を作った異端児 小宮山英蔵とその一族

小宮山英蔵を知る人は少ないかもしれないが、彼が創業した平和相互銀行の顛末は、戦後の鉄屑業と金融界事情を、ふたつながら一つに結びつける、戦後の混乱期とその後の高度経済成長期ならではの出来事だった。鉄屑業から金融業に進出した小宮山は、庶民金融の「無尽」会社、相互銀行を創設し、親族の政治的存在をもバックに野心的な事業を展開した、いわば伝説の政商である。彼の死後、不正経理が暴露され、会社支配権を巡り一族と経営陣が訴訟合戦を展開し、東京地検特捜部が内偵を進めるなか8610月、住友銀行に吸収合併された。

 

6 在日コリアンの知られざる肖像 梁福周と姜福心夫婦

在日コリアンを語ることは、微妙な問題をはらむ。それを取り上げること自体が、差別であり、避けるべきではないか、との指摘もうけた。ただ編者は業界紙記者として、在日コリアンに接してきた。彼らの存在と働きをなかったことにしては、鉄屑業の正当な姿は伝えられないと信じた。では、どう伝えるのか。在日コリアン鉄屑業の歴史資料、文献は極めて少ない。当然だろう。あったとしてもそれは「一家の個人史」であって、公に明らかにするものではないからだ。そのなか「祖母が自家出版した本がある」と手渡された。日本統治下の戦前から戦中、戦後から現在に至る一家の物語であると同時に、日本鉄屑業の貴重な証言でもあった。

 

7 沖縄の鉄と自立を支えた 古波津清昇

 1 焼け野が原の沖縄に つち音高く ひびく頃

   鐵を拓いて 豊かな島を 築かんものと 立ち上がる 拓南製鐵 我等のほこり

 2 一千余年の郷里史に 鐵の歴史をきざみこむ

   固い決意は 鋼(はがね)の如く 島に命のある限り 拓南製鐵 我等のほこり

 3 飛び散る火玉千六百度 走る火の玉 操(あやつ)りて

   汗にまみれた 男のにおい きびしい顔の美しさ 拓南製鐵 我等のほこり

 4 嵐にたえてひとすじに 技(わざ)をみがいて 伸びて行く

   力を合わせ工夫をこらし 栄へる島の いしずへに 拓南製鐵 我等のほこり

古波津清昇は、沖縄の鉄スクラップ業者として拓南商事を設立し、台風にも吹き飛ばされない鉄筋住宅を目指して拓南製鉄を作り、電炉を導入し一島の自立を支えた。これは社歌である。

 

8 大阪から関東へ、世界へ乗り出した 黒川友二

扶和メタルは、大阪の老舗、高炉直納業者である。若くして経営に携わった黒川友二は、3K(きつい、汚い、危険)業種の典型だった自社の陣容を、まず社員を「居着かせる」環境づくりから始めた。それが労働改善と並行した先駆的な機械化であり、コンピュータ利用工場への挑戦、オンラインシステムの導入となった。

90年以降、東京、千葉、埼玉など関東方面に進出し、2007年には米国に拠点を開設してコンテナ荷による三国間・輸出ビジネスを開拓した。また「関西鉄源連合会」を設立し、「10年先を見詰める」との信念から、各種の提言活動を積極的に展開した。さらに「ビジネスは常に一流たれ」との信念から、社員の社会的なスキルアップやマナー教育は勿論のこと職場環境の美化、整備にも力を入れた。卓越した経営手法と積極的な提言から地元関西だけでなく、日本を代表するオピニオン・リーダーとして、国内外に広く知られるに至った。

 

9 商権に抗してニッチな専門商社を育てた 渡邊泰博

渡邊泰博の今日があるのは、父の会社に入った直後、お前の会社はあと3年もったらいいほうだ、と大手商社の社員から告げられた、その衝撃にある。鉄鋼と大手商社の縄張り(商権)が威を振るっていた40数年前、ブローカー同然の問屋商売には未来などなかったのだ。その粟立つような恐怖のなかで、どう生き延びるかが問題だった。のっぴきならない現場から策を練った。だから、すべてが場当たり的であり、すべての策が手作りだった。それが業界の変わり者を産み、世界でも類を見ない専門商社を築き上げた。その独自の経営哲学を、次代に共に生きるメッセージとして、社員教育本(「セールスマニュアル」№1、№2)や自伝的な出版本(「『ニッチな専門商社』ナベショーの百年」)として世に遺した。